2015年4月25日、何の日だったでしょうか。覚えておられますか?
その日は、ネパールで大地震が起こった日です。気象庁によると、地震の規模を示すマグニチュードは8.2。震度はアメリカで用いられるメルカリ震度階級でⅨを記録しました。これは、日本の気象庁が用いる震度に換算すると、震度7相当。9,000人弱の方が亡くなられました。
その時、あなたはどこにおられましたか?
わたしは、ネパール・カトマンズにいました。その時の体験を綴ります。
その日は?
ネパールは、週休1日の国。土曜日だけが休みで、日曜日からまた1週間が始まります。4月25日は土曜日。ネパール国民にとって、いたって普通の土曜日。週一回の休日でした。
通っている美大もお休み。1週間の疲れもあるし、と、わたしも家でのんびりと過ごすことに。12時が近くなり、午後は出かける予定もあるし。
キッチンでお昼ご飯の準備中…
地震だ!!!
はっきり覚えています。
強い揺れの直前に、物凄い突風が吹きました。開けっ放しにしていたキッチンの勝手口のドアから、普段体験したことのない突風が部屋中に吹き込みました。
(この後、大きな余震の度に何度も経験することになるこの突風。突風+犬の吠え声が来ると、毎回、間髪置かずに大きな揺れがありました。)
異様な突風に「何だ!?」と思ったのも束の間、ゴォォォォォっという地鳴りとともに、床がうねりだします。上下の揺れではなく、前後左右にグルグルグルグルと、回されているような揺れでした。
キッチンで振り回され、立っていることもできなくなり、千鳥足で開けっ放しの勝手口から外に飛び出します。
うちは一階ですが、勝手口を出たところにタタミ2畳分ほどの洗濯物干しスペースがあるだけで、後は安全のために塀と鉄柵で囲まれています。つまり、勝手口から外に出ても、建て物から離れて、安全なスペースまで逃げることはできません。
鉄柵に飛びかかるようにして掴まります。それでも、振り落とされそうな揺れ。塀の向こうは大家さんの駐車スペースがあり、ネパールでは珍しい磨き上げられたBMWがいつも停まっています。
鉄柵越しに、各家から出てきて逃げまどう近所の人々が見えます。大家さんの駐車場のさらに向こうは空き地。空き地に避難しようとする人々。次の瞬間。
ガラ、ガラ、ガッシャーーーン
駐車場のレンガを積んだ壁が大きな音を立てて、空き地側に倒れたのです!飛び交う怒号・叫び声。犬のけたたましい吠え声。
恐怖のあまり、つむった目を開けると、間一髪。怪我人はいないようでした。
“このわたしが掴んでいる鉄柵ごと倒れたら…”。“上にそびえ立つこの建て物ごと、こちら側に倒れてきたら…”。という思いが頭をよぎります。まだ揺れは続いています。転びそうになりながら、キッチンに戻り、壁をつたい、やっとの思いで玄関までたどり着き、二階に向かって「ばぁ〜!まぁ〜!」と叫びます。
(うちの大家さんはネワール族。ネワール語でバァ=お父さん、マァ=お母さん。)
上から、「ハジュール!(呼び声に対する応答の意)」という声が。この時には、ほとんど揺れも収まっていたと思います。
余震が続く。
二階からバァが駆け下りてきます。
「どうだったんだ、どうだったんだ。大丈夫か、大丈夫か。」まくし立てられるように、質問を浴びせかけられます。「大丈夫。大丈夫。マァは?リタちゃん(メイド)は?」
どうやら、みんな無事のようです。ホッとした瞬間、またしても揺れが!
玄関のドア枠にバァと2人で掴まります。ドア枠はネパール語で、四角形を意味するチョウコスと呼ばれます。「揺れの時にはチョウコスにいると安全だから」とバァ。
揺れが収まり、上に来て、倒れた冷蔵庫を起こすのを手伝ってほしい、と言われ、言われるがままに上にあがります。
二階と三階が大家さんの居住空間です。上は、ひどい有様でした。
立派な植木鉢は倒れ、大きな冷蔵庫も床に転がっています。水槽の中を泳いでいた熱帯魚たちも、フローリングの上。神棚に祀られていた、ヒンドゥー教の神様たちも床に転がり、マァが大きな声で、「何の意味もなかった!」と叫びます。
冷蔵庫を抱えようとしてみたものの、その大きさ。重さ。どうしようもできません。
そんな中、また大きな揺れが!足の悪いマァの手を引きながら、階段を駆け下ります。「近くの空き地に避難しよう!」と、バァ。「死ぬなら、この家で死ぬ!」と叫ぶマァを引っ張り、外まで連れ出します。
途中、一階の自分の部屋に戻り、iPadと携帯電話を取ります。地震からまだ10分も経っていません。iPadには、日本の家族や友人からたくさんのメッセージと電話が。
ひとまず家族に生存報告。この時は、日本で大きく報道されたことも知りませんし、同じカトマンズ市内で大惨事が起きていることも知りませんでした。「大丈夫だよ。心配しないで。また電話する。」と言ったぐらいだったような気がします。
しかし、この後、10日ほどインターネットは使えなくなります。
被害が明らかになる。
その日のうちに、幾らか被害の程度が聞こえてきました。
うちから歩いて20分ほどのアサン地区が被害がひどいらしい、との話が。アサン地区はネワール族の集合体がある地区で、家と家が隙間なく密集している。あぁ、確かに酷そうだ。倒壊した家屋が目に浮かぶようでした。
わたしには、ネパール人のろう者の友人がいます。とても親切な友だちで、わたしの付け焼刃のネパール手話も理解して、会話をしてくれます。実は、彼女の家もアサン地区。
地震の3時間ほど後、うちのすぐ近くの道でバッタリと再会します。「どうしたの!?大丈夫!?家は!?」今度はわたしが浴びせるように尋ねます。「家はなくなったよ。誰かに会えるかな、と思ってこっちまで歩いてきたの。」と。
「今晩、うちに泊まればいい!」手話で必死の思いで伝えます。「大丈夫。ついさっき別の友だちが泊めてくれるって言ってたから。」
この後、彼女は何ヶ月も友だちの家に間借りすることになります。今は、ボランティアが建てた仮設住宅に入っています。
その後も、“ダルバール・スクエアには何もないらしい"。 "ビムセンタワーも倒壊したらしい"。いろいろな情報が駆け巡ります。混乱・悲嘆・失意・叫び声…。次第に、空を軍用機が飛び始めます。
一日後、二日後、と被害の程度が明らかになります。インターネットも電話も繋がらない被災地では、新聞が飛ぶように売れ、すぐに売り切れになります。みんなで回し読みをします。誰かが読み終わったものをもらい、わたしも貪るように目を通します。
ガレキの山となったダルバール・スクエア。跡形もなく倒壊したビムセンタワー。実際に目で見ると強烈な思いがします。各国の救助隊の様子も掲載されています。
近くにゴンゴブという地名の場所があります。ブというのは、ネワール語で沼のこと。元々沼地だったのを埋め立てて、家を建てたようです。その立地ゆえ、ゴンゴブ地区の被害は酷いようでした。
一階からぺっちゃんこに潰れたビル。“まだ救助を求めている人の声が聞こえる”、“あのビルのガラス越しに人の手が見える”、との噂話も。怖いもの見たさからか、現地まで歩いて行って見てきたというネパール人が、お節介にも細かく説明してくれます。
実は、このゴンゴブ地区で、大家さん夫婦の甥っ子さんも亡くなられたことが、10日ほど後に判明します。マァの泣き顔、無念さを鮮明に覚えています。
二次的被害。
地震後、電気と水道はストップします。インターネットも使えなくなります。
じんわりと汗をかくほど、蒸し暑い時期になろうとしていました。お風呂に入れない。電気が使えない。
幸い、ガスはプロパンガスのため、備蓄があります。煮炊きは行えます。うちには、地震の影響で家に入れなくなった日本人の友人2人と、ネパール人の友人1人が泊まっていました。食事は振る舞える。それだけでも、幾分かホッとしました。
しかし、このまま食糧危機になる恐れもあったため、贅沢はできません。一日のうちニ食をビスケットや乾燥させたお米・チウラなどでしのぎます。
街には、葬ることができない遺体が溢れています。牛などの家畜も地震でたくさん死にました。家畜を葬る余裕など、尚更なく…。街には腐敗臭が漂い始めます。感染症の蔓延の恐れ。治安の悪化。わたしも肉体的にも精神的にも疲れてしまっていました。
帰国。
元々、大学の区切りもいい、5月頭に一度帰国することにしていました。
地震から2週間後、ようやく日本に帰国します。しかし、休養後、またネパールに戻り、今度は救援ボランティアとして仮設住宅の建設に参加することになりました。
この体験から、海外で被災した際に生存率を高める方法についてまとめてみました。
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